昭和45年05月05日 夜の御理解



 神様を信じておるから、和の心が頂ける。神様を信じておるから、賀の心、賀こびの心が頂けるというもんでなからなければ、和賀心のほんとの値打というものはないのですよね。やはり、その人の性格というか、信心はなかっても、自分の修養で平和の心を創ろうと。穏やかでありたいと願う人。又は、生まれつきに穏やかな人。又は、信心はなくても、非常に喜びの篤い人が有りますよね。
 それも、だから、その平和であるとか、喜びであるということですから、腹を立てておるよりも、喜びがないことよりも有難いことですけれどもね。お道の信心でいう、この和賀心というのは、神様を信じておるから、和でおれれるということ。神様の働きをこの自分の心で体で感じ取ることが出来るから、自ずとそこに喜びが湧いて来るという、和賀心でなからなければ、ほんとの値打はない。それが、おかげに繋がり、お徳に繋がるいった様な和賀心というものは、その様なものだということなんです、ね。
 和賀心は神様を信じておるから、平和でおれれるんです心が、ね。心が例えばどんなに乱さなければならない様な場面に直面致しましても、神様を信じておるから、神様の働き、間違いのない働きと信じておるから、心が穏やかでおれれるんですよね。ほんとにこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと、ほんとに自分の無力さ加減、「障子一重がままならぬ人の身」と仰るが。
 確かにそうである事の事実を、自分の実態を突き詰めて、突き止めて、そこに現れて来る、その諸々の働きというものがです、神様の働きとして、神愛として受けられる、そこから喜びが湧いて来る。その喜びがなからなければ、ほんとのおかげに繋がる、お徳に繋がる和賀心とは思われんのでございます。まあ昨日、松栄会の入殿に当たって頂いた御理解、又は、今朝から頂く御理解なんかを思うて見て下さい。
 まあ例えば、小さいことに一つ絞って言いますとね、その様に段々信心をさせて頂く様になって、神様が信じることが出来る。例えば人間関係、特に親子関係の場合でもです、親が言うても言うことを聞かんと、神様にお願いをする。成程、自分が、親が言うよりも、神様にお願いをして、言わずに祈った方がおかげが頂けるということが分かる。分かってきたのですから、もう次の問題の時に言わんでよかりそうなものですけれども、やはり言わずにはおられぬ様な衝動がある。
 子供の、例えば不行き届きとか、子供の目に余るような事柄を見るときにです、やはり親として言わなければおられない。けれども、言うてもおかげにならんことは知っておる。やはり神様にお縋りするより他に仕方がないというね。そこでね「金光様、金光様」と言うて、辛抱するより他無くなってくる。そこでですね、又改めてですこりゃ昨日今日頂いておる事なんです、ね。
 辛抱しなければならない程しの私だと云うこと、ね。神様を信じておる、というてもです、そこに辛抱しなければならない程しの程度の、いわばなっとらん自分ということ。ほんとのものじゃないという私をね。私はそこに追求しそこへなっていない自分というものを見極めて、そのなってない自分が、なって行くように精進することがね、私は神様を信じ和賀心がね、おかげの元であるとお徳に繋がる心は和賀心だと。
 それは、神様を信じておるからこそ、和でおれれるんだ、喜びが頂けるのだという、そこのところまで分かった人達の、まあいうなら信心。信心辛抱と言われるけれども、信心辛抱しなければならないという時にはねまだね、辛抱しなければならない自分という。大体言うたら辛抱せんでも、有難く受けられなければならない筈なんだけれど、まだぐっとこう辛抱しなければならない。
 「金光様」とこう縋らなければおられないという様な程度の時にはね、まあその程度の自分である。その程度の信心であることをね、ひとつ悟らせて貰うて、やはりそこを辛抱せんで済む、有難く受けられる自分にならせて頂く精進、ね。だからここんところは恐らく生涯、「一生が修行だ」と仰るから繰り返しさして頂くことでしょうけれどね。この位のことには、もう辛抱せんで済む様になったという様にです、一段一段信心が進められて行かなければならない。
 私今晩皆さんに、そのほんとに分かって頂きたいことは、そういう意味の事を説いておるけれども、今晩の様に適切にですね、和賀心というものを。あのう本当の意味に於いての金光大神の仰るところの和賀心というのはね、神を信じておるから、和が生まれるのだと、神様の働きを感じ取ることが出来るから、喜びが湧くのだという、和の心であり、賀びの心でなからなければいけないということと、ね。
 又は段々おかげを頂いて、神様の一分一厘間違いのない働きと言った様なものを様々な体験の上から分からせて頂きながらも矢張り、まあだそこにぐっと辛抱しなければならない程度の自分という程度の自分をですね、そこにはっきりそれを捕まえてね、それが辛抱せんで済む、只有難くそこの所が行けれる私になって行く精進。私はそういう精進がなされて行く所に、限りない和賀心の深さ広さを感じ取って行く事が出来ると思うですね。
   どうぞ。